現代錬金術師SEIJINが語る心理学・哲学と神秘学のブログ


心理学は世界を救うか?

⊆ 7 月 27th, 2009 by SEIJIN | ˜ No Comments » 0 トラックバック/ピングバック

ふと、根本的なことに触れてみましょう。
はたして心理学なるものは、世界を救えるのでしょうか。
私はユング、フロイト、ニーチェなどを研究したのを約10年前にやめてしまいましたが、これは一種の限界を感じたからでもあります。

心理学は安易に理解すべきではない、危険な領域を含んでいます。
これは、多くの人に理解されたらさぞ素晴らしいことであろう、と同時に、絶対に理解しないで欲しいと願うほど過酷です。
ニーチェは嫌がるでしょうが、ユング心理学やニーチェ哲学が、西洋神秘学のカバラと同じことを前提として引用するならば、「理解した者である者は信仰を失い、破滅し、ある者は生き延びる」という言葉が、ユダヤ神秘学で警告的に語られています。
ニーチェの「ツァラトゥストラ」は難解とされていますが、意図的に難解に設計されているのであり、この理由の一つには「どうか理解しないで欲しい」という彼の願いがあるように思えて仕方がありません。
事実、彼は何度も「これ以上は来るな。引き返せ。」というよなことを主人公に語らせます。

話しを戻しましょう。
心理学の奥義は、多くの人には理解できません。あるいは理解されないことが、おそらく幸福です。
よって、表面的なものしか多くの人は利用できませんし、その方が安全です。

心理学は、あなた個人を変革する助けにはなるかもしれません。
しかし、人類全てを救う手段にしては、あまりに過酷、かつ難解であるが故、非力であると感じています。
もちろん、これからも心理学の学問は複雑化、高度化していくでしょうが、もしあなたが心理学を学ぶ場合注意するべきことは、あなたはそれを理解したとしても、決して誰も救えもせず、幸福にもすることができないかもしれないことを、受け入れるべきだということです。


永遠に女性的なるもの「アニマ・ムンディ」と永遠回帰

⊆ 9 月 2nd, 2008 by SEIJIN | ˜ No Comments » 0 トラックバック/ピングバック

錬金術ではさかんにアニマなる言葉が出てきますが、一般にはユング心理学の用語としての方が知名度が高いと思います。
ユング心理学は有名ですので、この言葉の意味はご存知の方も多いと思いますが、具体的には男性の心理における、女性の姿に投影された己自身の心の分身のことを指します。
アニマの語源は「魂」を指しますが、錬金術ではこれが数百年前から女性の姿で描かれていたことも、ユングがこの言葉をこの意味にあてた理由の一つでしょう。
アニマ・ムンディは「世界霊魂」又は「宇宙霊魂」などと訳されます。
そして錬金術を心理学と同じと考えた場合、ダイレクトにこのアニマ・ムンディはユング心理学におけるアニマまたは女性の持つ場合はアニムスと一致すると考えて良いでしょう。
ちなみに、ソクラテスは「ダイモーン(神霊)を信ずるもの」として告発されましたが、彼にもこの神秘の女性を知っていたと一部で言われています。(これについては、いずれ別に書きましょう。)

次にダンテの「神曲」におけるベアトリーチェはダンテを神の世界に導きますが、文字通り彼女は彼を「案内」します。
ゲーテの「ファウスト」にも最後の一説に謎めいた言葉「永遠に女性なる者、我らを牽きて上らしむ」があり、確か後書きだったと記憶していますが、その著者が心理学に深いらしく「この一文はフロイト心理学と関係がある」ような書き方をしていました。これもユング心理学的に言えばアニマになります。
つまり心の伴侶であるアニマまたはアニムスは、人間の心の変化・成長・革命に関係し、その変化を導く働きがあるのですが、ちなみにニーチェは「私はゲーテの言う『永遠に女性なるもの』の秘密を暴いた最初の人間かもしれない」と言っています。
さらに「男性は『永遠の女性』を信じるが、女性については『永遠の男性』を信じているのだ」と、ユングのアニマ・アニムス論を先取りすることを述べています。

フロイトが自分の研究がニーチェの剽窃と評価されることを恐れたことは有名ですが、つまりフロイト心理学はニーチェ哲学と非常に近接しており、ユング心理学とも骨格的に大きく変わる物ではありません。
アニマの意味する範疇は広く、秋葉原系アニメの美少女キャラクタも勿論、一つのアニマの現れですが、これは多く恋愛・性欲の対象ですので「低次アニマ」と表現して良い物で、この段階では心の成長に関わる機能は殆ど無いと思います。
これがあるきっかけにより、(私の場合は完全に一種の偶然ですが)自分の心の変容が開始するとともに自分が投影するアニマも成長し、より凛々しく、高貴に、そして恐ろしく厳しく成長します。
非常に高次に達したアニマはギリシアの女神アテナのようになると言われていますが、私の経験から言えば「男性と見まごうごとき勇ましい女性」に進化しました。
簡単に言ってしまえば、自分の自我が成長すると、無意識としての伴侶のアニマも成長し、まるで2人で階段を上って行くように感じます。「神曲」にもこのような表現がありますが、非常に多くの錬金術絵画がそれを描いています。

別の言い方をしますと、最初は可愛らしい愛でるべきアニマ(性欲の対象)であるのですが、次第に本人を「告発するアニマ」となり最後には、アニマ対自我の命を賭けた一騎打ちのような様相になります。
中高校生の時は理解できませんでしたが、プラトンの言葉「エロス(美しい肉体への愛)からフィロソフィア(愛智)へ」にも、おそらくこの意味が含まれているのでしょう。
一部のキリスト教でYHWHの妻をソフィア(智)と呼ぶことがありますが、まさにそのような「智」を愛人とするような状態になり、はっきり言いますが、この段階のアニマは外見が美しくとも性欲の対象として絶対に見ないような「凄まじく厳格な人」のようなものになります。

実際、月と太陽が馬上で一騎打ちするような図や、雄雌のライオンが噛みつき合うような図が錬金術にありますが、正にこのように厳しいものであり、「アニマが勝つか自我が勝つか」という状況になります。
このようなことで抜きつ抜かれつつ精神の階段を上って行き、上り切る時、終に自我は「永遠」と遭遇することになるのですが、これがゲーテの愛した「永遠」でありニーチェの言う「永遠回帰」の根拠になっていると考えています。
ユングはこの「そら恐ろしい宇宙のようなもの」を「自己(セルフ)」と呼びましたが、この時言うならば一種の全能感「宇宙と一体化したような気分」になります。(この時が自我インフレーションの極限状態です。)
ユング心理学ではこの自我インフレーションが極大になった状態を「エナンティオドロミー」と呼びます。
ちなみにニーチェはユングより先にセルフという用語を使用しており、また「ツァラトゥストラ」の中で自己(セルフ)を「偉大なる天体=太陽」に喩えています。

ニーチェの永遠回帰(永劫回帰)は、色々と文章的に小難しく解釈する哲学関係者がいますが私はこれは、一つの精神的変容の究極段階に達した状態と深い関係があるものと考えており、この、まるで時間を静止したような、「永遠(∞)=無(ゼロ)」というべき非常に仏教的境地と関係が深いと思います。
これがニーチェが「西洋の仏陀」と呼ばれる理由なのでしょう。
しかしこれは文章に書いただけでは理解不可能であり、実際に体験しないと分からないのですが、経験してみると正にこのようにしか言えないものです。

ファウストは「止まれ、あなた(世界=全て)は美しい。」の一言を吐き、賭けで悪魔に負けますが、この言葉は、正に全ての世界と時間が停止し見事に美しい、完全で永遠なる世界への賛美であると思います。
ニーチェは色々な先人にケチをつけることで有名ですが、彼はゲーテは絶賛していたと聞きます。


道徳の撲滅者ニーチェの言葉「善悪の彼岸」とは?

⊆ 8 月 10th, 2008 by SEIJIN | ˜ Comments Off 0 トラックバック/ピングバック

ニーチェの書物で「善悪の彼岸」という、とても格好が良い名前の物がありますが、この言葉は結局何が言いたいのかというと、平たく言ってしまえば「善悪の境界線は無いよ」ということです。
実存主義とは「客観の不在」の哲学であると言いましたが、つまり「客観的に正義と言われるものは定義不可能である」という立場から出発する哲学ということです。
これが「神は死んだ」という非常に有名なツァラトゥストラのセリフになり、一見すると悲観的で無神論的な言葉になる訳ですが、錬金術ではかの有名なエメラルド・タブレットに書かれているとされる「上なるものは下なるものが如し、下なるものは上なるものの如し」という表現になります。

禅においては仏陀すら殺せと言う言葉もありますが、結局、錬金術の奥儀に至るにはこの1つの意外な出発点・進入路から開始されるということなのでしょう。
仏教における八正道なるものがありますが、過去、この扱いにずいぶん困りました。
正しい行い、正しい見方、正しい・・・・となるのですが、そもそもその「正しい」が分からないから探究するのに、そんなこと出来るわけが無いだろうという素朴かつ堅固な疑問が解けないまま、30年近い時間が費やされて行きました。

いや、実際に現在でもおそらく圧倒的大多数の方々は意識ないし無意識的に「正しい」と思われることをやっておられる。それが何か漠然としており時に大きく小さく不安を感じたり動揺しつつも、それでも隣人・知人との関係を大切にし、父母を敬い、困っている人に手を貸してあげることを美徳としているかもしれません。

ここで少し研究的な思考に切り替えますが、ユダヤ人にはユダヤ人の、イスラム(イスラム教徒)にはイスラムの、日本の仏教徒にはそれの、それぞれ「徳」または「善」とされることがあり、結局これはバラバラではないのか?と。
さらに細かく分けて、日本人の仏教徒のAさんと、同じく日本人で仏教徒のBさんは、共に浄土宗であったとしても結局その人たちの価値観は必ずしも一致しない。いや、必ず一致しないと言って良い。

ニーチェは「善」を大胆に「民族が最も必要としつつ、しかし行うことが困難であることをその民族の善(徳)とした」というようなことを書いており、ある民族(たしか蒙古人)は弓の上手なことが至上の善であったなどと書いております。
数千年前、旧約聖書の時代には、イスラエル民族のみならず多くの民族では、敵または周辺の民族を激しく打倒し、殺し滅ぼすことは紛れもない「善」であったと思いますし、この旧約聖書を現在も道徳(善)の根本に据えるイスラエルの民は21世紀の現在であっても隣国・敵国を打ち滅ぼすことには容赦がありません。従ってこれはとても自然な行為です。

結局、道徳なるものは全人類で単一とは言えず、それぞれの民族または個人で小さくまたは大きく異なり、整合しない。
日本国内の仏教の各宗派ですら、全派統一でお経を読む会を行おうとして、結局話がまとまらなかったという話があります。
ニーチェは牧師の家に生まれますが、幼少の頃から非常に道徳的(?)に育ったようであり、ある雨の日、はるか向こうから我が家に向かい、走りもせずに歩いて来る息子について母が尋ねると、「だって学校では雨の日に走ってはいけませんと言われていますもの」と答えたという話が残っています。

そのような彼が晩年には、「道徳そのものは存在しないが、物事の道徳的解釈は存在する」ということを言い、自らをインモラル(非道徳)な者として激しく「道徳の撲滅キャンペーン」を開始します。
彼は何とかしてこの「道徳というものが人々が素朴に考えるように存在していない」ことを知らせようとして、激しい奇妙な文体の作品を作るのですが、当然ながら殆ど誰にも理解はされませんでした。
結局ですが、何か宗教的または哲学的に善ないし道徳について非常に詳しく考える必要がある人が、この意外なる進入路を見つけてしまうのかもしれません。
ですので、ある方で皮肉なのか敬意からか、ニーチェを非常なる「モラリストである」と評する方もおられますが、まあおそらく上のことをご存じなのでしょう。

ツァラトゥストラの有名な場面の一つに、彼が白昼、行燈を灯し狼狽して「神はどこにいるのか?」と街をさまよう場面があります。それを見た人々は「見ろ、ツァラトゥストラが真昼に行灯を灯して神を探している」と嘲弄するのですが、ここにかつて激しく「神」または「真理」を追い求めたニーチェの姿が見えます。
この場面を見て、同情するべきではないと知りつつも、非常に真摯に真理を追い求めたニーチェに心が揺さぶられます。


作者と似ていると思う人 C.G.ユングとサルバドール・ダリ

⊆ 8 月 8th, 2008 by SEIJIN | ˜ Comments Off 0 トラックバック/ピングバック

論理的探究心がありながら、家系がオカルト的で論文も超科学的なところがあり一部の学者から嘲笑されるC.G.ユングですが、どうも自分に似ていると思います。
彼の占星術的心理学については納得できない部分がありますが、おおよそ彼の探求し思い描いた世界に共感しております。

ただしもう一人、芸術家で似ている人がいます。
サルバドール・ダリ。
彼は晩年に神秘主義宣言をしていますが、案外本気であったと思います。
これは多分、彼はフロイトを越えたいと思うはずなので芸術家として必然であると思います。
フロイト心理学的でありながらそれに対し反抗心が見え隠れする彼の作品と態度が、私とユングの関係に似たものを感じています。(レベルはさておき)
ダリについては、現在の一般的美術史で考えられているより先駆していた人と考えていますが、これは一方で仕方がありません。

近年、コンセプチャルアートなるモノが非常にポピュラーになったとは言え、心理学・哲学・科学を最も嫌う人々が、宗教家・神秘家それと芸術家だからです。
ダリはコンセプチャルアートの人でもあるのですが、晩年はそれを乗り越えようとしたように見えますので、その意味で先輩です。
同年代だからと言って、彼を近代のピカソ他と同列にしてはいけないでしょう。


2つの喜び(Two Pleasures)「愛と放棄」

⊆ 8 月 8th, 2008 by SEIJIN | ˜ Comments Off 0 トラックバック/ピングバック

人間は2つの対極で喜びを感じます。
1つは「愛」。仏教的に言えば「執着」と言え換えられますが、何かに対する愛情や自己愛そのものに人は癒しを感じます。
その反対に「前進」又は「克服(超克)」という、例えば昨日まで出来なかった逆上がりができるように成長した時、又は今まで分からなかった数学の原理が理解できた時などに感じる喜びがあります。
西洋神秘学では「放棄」と呼び、人が成長するに際、何かを克服する時、過去の自分を乗り越え超克する時の喜びです。

仏教それも天台山や高野山の密教に反れますが、ここには有名な胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の2つがあります。
胎蔵界曼荼羅は「愛」の世界であると喩えられ、そして金剛界曼荼羅は「智」の世界であると喩えられます。前者をマトリックス(MATRIX)と呼ぶ人もいますが、まさにその意味です。

愛と智の2つはお互いに存在しなければ片方も存在し得ないけれども、性質・意味はお互いに相反する。大きく言えば矛盾する。
フロイトは「愛」と「死」を対立させ、ユングも似たような図案を描いていましたが、結局人は知らず「愛」に漬かった状態から「智」により己は何者かを明確にして行くことで成長するという点で、密教(仏教)と心理学は非常に近似していると考えます。

ニーチェは東洋の仏陀と呼ばれることがありますが、つまりはフロイトやユングの心理学的における一つの理想的境地が、仏教におけるそれ(解脱と呼んで良いかは置いておきますが)と一致するのではないかという考えに基づきます。

もちろん、仏教を科学または哲学としてではなく、神秘的宗教として深く信仰する方にはこれが非常に不快であり許し難い冒涜に感じる方もいるようですが、短絡に言ってしまえば上のようになります。

さて多くの「癒し」では前者の「愛」を扱いますが、ニーチェの超人とは平たく言ってしまえば、後者の「智」により次々に己を乗り越え前進することにより「健康になる人=癒される人」のことを言うと考えて良いでしょう。

現存するこの世の全てのモノ(現象)は確かに「愛」の化身なのですが、つまらない表現ですが、愛は盲目であることが問題になります。
「愛」のみでは盲目になるが故に「智」の剣により己を切り刻み無明を明らかにして行くことが必要なのですが、これが仏教(密教であり禅)であり錬金術であると考えています。


個性化と自我肥大(自我インフレーション)

⊆ 8 月 8th, 2008 by SEIJIN | ˜ Comments Off 0 トラックバック/ピングバック

ユングは最終的には実存主義者ではなく実在論者の立場を取ったと考えていますが、実存主義を理解していたことは確かであると思います。
ユング心理学の言うところの「自己」とは、極論すると「神」または「全宇宙」と言い換えても良いものです。

ユング学派の言う「個性化」が進むとフロイト学派の言うところの自己同一性は高まって行くのですが、その結果心理的変容の1つの最終過程である「自己」との一体感を感じる瞬間が起きます。
これをユング心理学ではエナンティオドロミーと呼びますが、この際に経験者には自我肥大(エゴ・インフレーション)という物が起きているとされます。
この自我肥大という言葉は、言葉だけでも良い印象は無いと思いますが言ってしまえば、「自分と宇宙が一つになったような全能感」が起きます。
私の経験からですが、頭の片隅ではこれは一種の錯覚に過ぎないと気付いているのですが、確かに自分がまるで「神」になったかのような気持ちになり、一種傲慢になりました。
そして非常に分かりにくいと思いますが、同時にそれは「死」に非常に近接した状態、生と死の交わる1点に自分が立っている感覚であり非常に危険です。
別のある心理学者(セラピスト)の言葉を借りると「自分が100%死ぬと分かっていた」という表現も可能です。(彼の場合は私と比較し幾らかポジティヴな状態であったようですが。)

この異常な精神状態が、おそらくニーチェの言うところの「永遠回帰(永劫回帰)」になるのであろうと考えています。
心理的変容が未経験の哲学・文学系の方々は、この永遠回帰を文章・文脈的に理解しようとする傾向があるようですが、この永遠回帰思想はそれだけでは断片的理解に過ぎず、彼のツァラトゥストラには、むしろこの「死を伴った全能感」をニーチェが克服しようとした時に表された言葉が出ているだけと考えています。

ニーチェの「ツァラトゥストラ」含め彼の作品は皆、一種の高揚感がありまた傲慢とも言える全能感に満ちていることがありますが、この原因には彼の梅毒罹患による脳の器質的破壊があったかもしれませんが、ユング派の言葉を借りれば個性化過程における自我肥大による影響もあったのではないかと思います。

ニーチェの文体は非常に力強いのですが同時に一見、混乱・破綻したような文章になっています。
これは自我肥大を伴う個性化課程を経験した者のみは「ああ、そうだよね。同じことを経験しているんだ。」と読み解けるようある程度意図的に設計されていると思います。


心の解体はなぜ危険か

⊆ 8 月 7th, 2008 by SEIJIN | ˜ Comments Off 0 トラックバック/ピングバック

ユングについて言えば、当時の精神分析医について、彼らが十分に自己分析を行っていないことを懸念していたようです。
現在でも精神科医のプロフェッショナルでも自己分析は必須かというと、必ずしもそうではないようで、出来上がっている精神医療・心理学のセオリーは学ぶけれども分析を自らに行うかどうかは、学んだ団体や教師にも拠るのでしょう。必ずしも必須ではないようです。
理由はおそらくは、専門家であっても危険が伴うためであると思います。

ユングは「まだ多くの人は、自分の無意識と向き合う準備が出来ていない」と言っておりますが、自分の心を解体する際に自分自身に向き合うことで大きな危険になるのは、自分の心の闇の部分と出会わねばならないためです。
現在では人口に膾炙した「無意識」と呼ぶ物ですがが、これと向き合うことは、簡単にできる様でいて実際はとても難しい。
最近は小中学性でも無意識の概念は理解しているようですが、その無意識と「実際にお話したことがありますか?」と問えば、おそらく100%近くの人が経験したことが無いと思います。

無意識とは文字通り「意識していない」ことですから、これを「意識する」のは考えている以上に困難です。
人間とは自分に都合の悪いことを多く、この無意識という名の四次元ポケットに深くしまっています。
基本的に自分は見たくないので押し込めてしまうのですが、結果、自分の無意識を見ぬまま一生を過ごす人も少なくありません。
さらに言えば、自分について深層心理を一旦分解・分析したことがある者ですら、その全貌を全て知りえるかというと、まだまだなのだと思います。

ところで、自分の心・精神を一旦バラバラに解体する自己分析について、心理学が成立するはるか過去の数100年ないし或いは2000年以上前から同様にされてきた物が「錬金術」なのです。


ニーチェ哲学と心理学

⊆ 8 月 7th, 2008 by SEIJIN | ˜ Comments Off 0 トラックバック/ピングバック

ニーチェは実存主義の範疇に置かれますが、この実存主義という言葉が存在する以前の人ですし、この言葉自体が重大な意味を持つ訳ではありません。
さてニーチェの哲学は一般に難解であることで有名ですが、これは多分にそのように設計された節があると思います。
彼は彼以降のk時代で心理学が台頭して来ることを予言しており、彼の著作を哲学としてより心理学として解釈する人も少なくありません。

ニーチェの哲学は「経験の哲学」と呼ばれることがありますが、これは作者と同様の経験をした者のみに理解できることからの命名で、このことからも彼の哲学はあまり親切な文章で書かれていないことが分かります。
彼自身「分かりやすくしてはならない。言葉の運動場を作っておかねばならない。」などと書いています。
彼の文章は意図的に読者を鼓舞する文体で書かれているためか、特に男性でその文章的躍動感と圧力に魅せられてしまう人も多いようですが、かつてのヒトラーが同じ状態でありましたので、注意が必要です。

ニーチェ自身が彼の作品について「低い魂には勇気を鼓舞する書物になるが、高い魂にとっては危険な解体する書物となる」という意味深長な言葉を遺しておりますが、特にこの後半部分「解体」とは「自身の心を解体する」という心理的分析の意味であると捉えて問題ないと思います。

つまり彼の作品を読解したい場合、読み手は自らの心を解体(分析)した経験がないと解からないということです。


何故、錬金術をモチーフにするか(錬金術・哲学・心理学)

⊆ 8 月 7th, 2008 by SEIJIN | ˜ Comments Off 0 トラックバック/ピングバック

錬金術が心理学と関係性があるなどと、1996年以前は全く考えもしておりませんでした。
ユングがこれを研究していることを多少は知っていましたが、オカルトかぶれの心理学者が馬鹿なことを言っている、程度の理解でした。
しかし21世紀になる直前に偶然、実存主義哲学なるモノをたまたま理解する偶然があり、ここで分かったことが実存主義哲学がフロイトやユング心理学の先祖と言える関係にあることでした。
これもやってみて分かりましたが、実存主義は一種の過酷な経験を必要とするだろうため非常に理解が困難であり、おそらく全人口の1%未満の人々しか理解していないだろうということ。
ユングを引用する人、ニーチェを引用する人など多いですが、曲解または非常に表面的な理解で書籍を書く方も多いということを先に述べておかなければなりません。

さて実存主義哲学とは「客観の不在」を語る哲学であり、サルトル、ヤスパース、キュルケゴール、ニーチェなどが有名です。
フロイトが精神分析学の租であることは有名ですが、彼は己の研究がニーチェの剽窃と解釈されることを気にしていたようです。
ユングは逆にその学説の骨子としてニーチェの作品内から引用したこともあるようです。

ところで最初はあまりユングに傾倒する気が無かったのですが、実存主義理解が深まるともに起きる心理的変容を絵に描き止めていったところ、錬金術絵画そのもののようになってしまい、初めてユングの研究内容が体験的に理解できたと思いました。
まず「哲学を理解して心理的変化が起きる」こと自体、通常には理解し難いことであると思います。これらは完全に想定外のことでした。


まず錬金術とは何ぞや?

⊆ 8 月 7th, 2008 by SEIJIN | ˜ Comments Off 0 トラックバック/ピングバック

錬金術は大きく分けて2つのカテゴリーに分けられると思います。

1)本当の物質としての「金」を作る。黄金生成。
2)キリストのごとき卓越した精神的境地にいたる精神変容の業(わざ)。

上の(1)については、実際色々といかがわしい人々が暗躍していた訳ではありますが、黄金を追い求めそれを何とか人の手で作り出したいという欲望は現代でも続いており、実際に水銀から金を製造することは微量ながら可能にはなっているようです。
このことから単純に化学と呼ばれる領域と錬金術とは、数百年前には明確に分離されていなかったことは想像することは容易です。

アイザック・ニュートンが錬金術を研究していたことは有名ですが、つまり錬金術は占星術(惑星の運行)や従って数学とも関連が深いわけであります。
そして惑星の運行と人間の身体・臓器・血液などと関係しているという考えがありましたので、医術にも深く関係しておりました。
「賢者の石」は、人造生命であるホムンクルス製造のため、或いは術者の不老不死獲得のために必要な一種の妙薬ともされております。

上のこれらに対し錬金術とは(2)の心理的変容の過程を示したものであると強く主張したのは、深層心理学で有名なC.G.ユング博士でありますが、このサイトでは主にこちらを扱います。